なかなか意向どおりにいかないだろう無理筋の被告事件。
それでも、訴えられたと言って来た人に対しては、原則できるかぎりのことをしようとする。
依頼を受けた内容に関連し、なるべく時間をかけて丁寧に話を聞き、それをくみ取ろうとする。
しかし、そのような中でも、できないことはできないと明確に申し述べる。無理なことをしようとするならそこは抑える。時にきつい言い方になるかも知れない。が、どれもこれも紛争の解決、そしてその紛争のくびきからこの人をすくい上げる(救うというよりも、そのるつぼから出て頂き、新しい地平で再スタートをして頂く趣旨。無理なことに貴重な時間を、人生を費やして欲しくない。)。
それでも、ダメなケースはダメ。うまく収められないケースは収められない。最終的には、付き合った時間が濃密であるだけ、最終的に決裂となり、その度合いも深くなる。こじれて懲戒請求されたことはほとんどないが(やらないとくり返し伝えていたことをそのとおりやらなかったら、気に入らなかったらしくされたことは、ずっと昔に1回だけあったが。)、それに近いような歪んだ形で終わることになる。
深いため息だけ。
結局、この人の人生は、こういうことにかけるというところに本質があったのだと。
それに付き合ってしまったこちらが悪いのであるが。
そういう人生は自分自身で生きてもらえばよかったのであり、こちらが関わってどうこうすべきものではなかったわけなのだろう。
唐突だが、考えてみれば陰謀論というのは、昔から一定の需要があり、また吹聴され続けてきたのだろうと思う。それがSNS等の普及で大きく拡がりやすくなり、米国の与太者のような、こういった需要を吸収する輩が、信じられないような支持を集める。
これは、ヒトという種族に本来的にセットされた宿命なのかも知れない。
そこには関わらずに過ごしてゆくのが、本来の賢いやり方なのかもしれない。
まあ、そうはいっても簡単に見分けられない、また逃れられないのも事実であるが。
深いため息だけ。
そりゃ疲れも増しますよ(爆)。
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