ピート・シンフィールド死去

キング・クリムゾンとの出会いは衝撃であった。

中二のころ、「うえちゃん」に教わった、いくつものロックバンドの面々の中でもそれは特に。

とかくジャケットが印象的な、「クリムゾン・キングの宮殿」、その中に収められていた「二十一世紀の精神異常者」の、不気味な遠くからのうなりから急遽大音量で鳴り響くイントロ、ロバート・フリップのギターのカッティングに張り合う、グレッグ・レイクの荒々しいボーカル、マイケル・ジャイルズのえらく手数の多い乾いたジャズフレーバーのドラミング。次の曲「風に語りて」で、フィーチャーされたイアン・マクドナルドのフルートでほっと一息、そして、「エピタフ」で劇的に鳴り響くメロトロン・・。どれもこれも、まだ幼い14才の感性には強力すぎた。とりわけ、最初に聞いたのが正規版の上記アルバムではなく、海賊版ライブだったので、サウンドはもっと荒々しく、そのおかげだったか、当時このバンドにはまってしまったクラスメイトが何人もいた(私はちょっと怖くて、ハマるところまでは行かなかったが。帰ってこられなくなる感じがしたのである。)。「ポセイドンの目覚め」「太陽と戦慄」「レッド」、それにえらく荒々しいライブ「アースバウンド」(しばらく日本版がなぜか出なかった)等々、強力な、またメンバーチェンジを経て違う方向からパワーアップしたそのサウンドは、特に74年のいったんの活動停止までは、本当に異彩を放っていた。


このバンドの初期(3、4枚目のアルバムくらいまでか。第1期と第2期)に、「作詞」ということで正式メンバーとなっていたのが、ピート・シンフィールド。このバンドにおいては、詞が非常に重視されていた。「混迷こそ我が墓碑銘」というフレーズが有名な「エピタフ」をはじめ、まさにこのプログレバンドの真骨頂とも言うべき屋台骨を支えていた。詞はおしなべて難解であり、そのよくわからない部分をありがたがるところも含め、当時プログレッシブロックが人気を博したことの象徴とも思う(以前にも書いたが、なぜかプログレバンドのインタビュー記事は、他のミュージシャンのそれと違って、答えが「ですます」調で訳されていた。英語にはそのような形の敬語はないと思うんだけど。)。

その後、グレッグ・レイクもメンバーとなったエマーソン・レイク・アンド・パーマーの作詞をしばらく担当したり、イタリアのプレミアータ・フォルネリーア・マルコーニ(PFM)にも関わったが、どうも記事によれば、ロキシー・ミュージックのファーストアルバムをプロデュースしていたのだそう(これは知らなかった)。それから、セリーヌ・ディオンのヒット曲も作っていたのだそう。息の長い才人の活動であったようだ。

80才ということで、まあロックミュージシャン(ではないか)としては比較的長命だったのかも(今はキース・リチャードでさえ80越す時代だけど。)。ただ、その存在がいなくなったというだけで、言い知れぬ寂しさを感じさせる人でもあった。





ろっくおじさんの戯言

ビートルズが全米制覇をした年に生まれた男(いちおうべんごし)が、音楽ネタや日々の雑感を綴る。仕事には役に立たないブログ。

0コメント

  • 1000 / 1000