自分に対する不思議

新年を迎えた。

やはり年末年始はあっという間に過ぎた。

昨年は国外逃亡していたが、今年は国内にとどまり、遠出もせず。

そして、今日から事務所にぼちぼち出始めた。


昨年末やり残したものに手をつける。

そして、年始よりさっそく、なんでこんなの・・ということを見つける。


昔からそうなのだが、当然気づくはずの失策に気づかないということが、私はときたまある。

ちょっと考えれば(というよりも眺めれば)、これはおかしい、間違ってる、勘違いである、というようなことになぜか気づかない。ずっとそのままことが(しばらく)進んでしまうこともある。

ほんのちょっとした見落としなのであるが、端から見れば、「なんじゃこりゃ?」というような誤りである。なさけない誤り。

今のところこれまでに、そのことが本当の意味での致命傷になったことはないのだが、いつになってもこれを直すことが出来ない。

思い込みが激しいのか、あるいはどこかで気を抜く(手を抜く?)のか。

(気を抜く、というのは、遠く大学受験のころに、共通一次後二次試験までの間に精神的なバランスを崩してから、とにかく根を詰めないで逃げよう、というような感覚が自己防衛的に出てきたあたりから始まっていると思うのだが、それは言い訳か。)


結局のところ、別の視点から見ることができないということなのだろうか。

いわゆる、「ものの見方」については、比較的多様な視点で見る方なのだとは思うのだが

(言い換えれば、これ、ということで一貫して見てゆくことがあまり得意ではない。いろいろな観点に浮気してしまう。)、とくに数字が入るとだめなようである。やはり文系ということなのだろうか。おそらく直感的にこれはおかしい、と思えるようなことについて、そのように思えずにそのまま進んでしまうという面、これがどうにもなくせない。

ほんとうにとんでもない簡単な点について。

これが自分の、「不思議」。いつになっても越えられない。


こんな感じなので、いつになっても自身の不完全さ、駄目さ加減を拭うことが出来ないでいる。定年のある仕事をしていたら、たぶん定年間際になっても不完全燃焼感が残ったままで退職するのだろう。それがこちらは定年がないので、ますますキリなく、もう少し自分を信じたい、もっと出来ると思いたい、などという(誤った?無駄な抵抗?)考えの下、いつまでもやめられずに行くのかもしれない。


いっそのこと、「おまえは無能だからもうやめろ。」と、誰かに言い渡してもらった方がよいのかもしれない。もっとも、そうなったらそうなったで、何か他のことでなんとか取り返そうとするのかもしれないが(何があるのか?)。


年始から何を言っているのか、というところだが、出すべき書面は出さなければならない。さて、どうするか。








ろっくおじさんの戯言

ビートルズが全米制覇をした年に生まれた男(いちおうべんごし)が、音楽ネタや日々の雑感を綴る。仕事には役に立たないブログ。

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