今年も3/11がやってきた。
先日、新聞の被災地の特集記事に、解体作業中のなんか見覚えのある建物の写真があった。
手前に大量のフレコンバッグ。屋根瓦の色が印象的なオレンジ。構造も・・。
直感的に、あれ?と思い、妻にもあたってみたけれども、
まさか、いやちょっと違う、こんなに木が大きくなかった、などと思って新聞をたたんだ。
その後、私の実家からの電話で、あれが父の実家の建物の写真と知った。
同じような構造の建物がこのあたりは多いのだろう、と思っていたのだが。
木もそうだが、脇にあったはずの倉庫もないな、などとも思っていたのだが。
祖父母がかつて住んでいた家。その後、叔母夫妻といとこらがそこで生活していた。
原発事故の約1年半前、2009年夏に、妻子を伴って出向いたのが、事故前の最後。
幼い頃から、町の「郡山海岸」には、夏になると海水浴で何度も訪れていた。
中学卒業の時には、広野町に親族がいた友人とともにきたことも。
2009年の時は、娘が波を面白がって、何度も波の下の方に突っ込んでいって遊んでいた。
水温が低く、しかも昔は波が荒くてすぐに深くなる、少し危険な海水浴場だったが、
途中からテトラを入れたりして、泳ぎやすくなり、
「日本海水浴場100選」にも入るなどしていた。
あの日、大津波の情報があり、その後各地で大変な被害が生じていることが続々判明した。
双葉の家とは、私の実家からも連絡が取れなかった。
翌日、ようやく連絡が取れたとの報が実家からあったが、避難先が川俣町だという。
なんで、ずいぶん遠くに避難したなあ、と思った。
そしてその一両日中に、そのわけを知ることとなる。
叔母夫婦は、その後、さいたまスーパーアリーナ→旧騎西高校避難所と、
他の多くの双葉町民とともに、苦難の避難生活を送った。
その後いったん栃木県に新居を確保したが、あまりにも交通の便が悪かったと言うことで、
その後、結局福島県内に改めて家を確保したとのことである。
そして今、叔母は病と闘っている。
双葉の家は、自分が幼いころのものとは違い、中学生くらいの頃に祖父が建て直したもの。
ここでも何度か、何泊か過ごしたこともある。
古い家の時には、夏に遊びに行くと、夜、蚊帳をつり、そのなかに外からとってきた蛍を放して寝たりなんて言うこともしていた。
虫を捕ったり、セミやいろんなトンボを捕ったり、蛙を解剖したり・・。
飼っていた鶏は昼間は外に放し、夕方戻ってきたのを小屋に入れていた。
夜になると病院の前の電灯に、山や田んぼの虫が大量に飛んできたり、
そしてそれを眺めに行ったり。
自然が豊かで、海に向かって田んぼばかりの、のんびりした地だった。
そして、あの日を境に、すべてが失われた。
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