コロナ禍の弊害

地方にいる依頼者(70代)の方に、11月の裁判に出席して欲しいという話をしているのだが、先日、「親族から、コロナが危険だから絶対言っちゃダメだ、と言われてしまっている。どうしたらいいか。」と相談を受けた。

依頼者の求めもあり、その親族と電話で話した。裁判所としては、やはり依頼者ご本人には出席して話をしてもらうのが原則という立場であり、また相手方も、反対尋問を経ない陳述書では信用性に欠けると強く主張することとなるのが通常である。そこで、なんとか不安を和らげ、注意しつつ来てもらう方向で考えてもらいたく、こちらの様子や状況(周囲に感染している人はいないこと、裁判所も感染発生がないようたいへん神経質になっていること、電車での移動が心配だがそこで大声で会話をしたりしなければ実際にはマスクをしていれば感染は防げるであろうし、電車の移動中にクラスターが発生したという話も聞いたことはないこと)等をわかりやすくつたえた(つもりだった)。

しかし、その親族は逆に,「そんな言い方をすることはないだろう。こちらは自分の考えで感染しないように注意するしかないんだ。」などと、私の説明が心外であり、不適切であるかの反応を示した。もちろんそんな反応をされるなどとは思いもよらなかったので、私なりに説明を試みたが、全くとりつく島もない感じであったので、最終的には全面的に謝罪をしつつ、なお今後もお願いは続けざるを得ないことを伝えて電話を切った。


当然のことだが、誰にも「感染は絶対しない」などと保障することなど出来ない。

しかし、そうはいっても、そのような中で必要な活動・行動はやはり存在するのである。

そのようなことを差し置いて、新型コロナというのは、極度の恐怖心を人々に(特に地方の人々だろうか)植え付けてしまい、過度の対応を人々に強い、その反動でそのような発想に合わない意見や行動を強く拒絶し、批判する、そのように作用してしまっているようである。


今のところ、今回のような件はこのケース以外にはない。しかし、近隣で老齢でなくとも過度に心配している人は少なくない(過度と言ってしまってはいけないのだろうが)。


いつまでこのような息苦しさが続くのであろうか。


ろっくおじさんの戯言

ビートルズが全米制覇をした年に生まれた男(いちおうべんごし)が、音楽ネタや日々の雑感を綴る。仕事には役に立たないブログ。

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