バルカン半島

いくつかの方面に迷惑をかけるかも知れないと思いつつ、思い切って昨年は早めに仕事を切り上げ、年明けは少し遅く始動することとした。

その間、あまり考えていなかったバルカン半島旅行へ(その中途で日本で大変な災害や事故が起こっていたことも知ることとなったが。)。

アルバニアと、旧ユーゴスラビア諸国(除スロベニア)。

20世紀には、「ヨーロッパの火薬庫」などと称され、第1次大戦開戦のきっかけとなったオーストリア皇太子夫妻暗殺事件が起こったり、第2次大戦後は長くチトー大統領の下で異なる民族・言語・宗教の人々が1つにまとめられていたものの、その死後、そしてさらに続く冷戦終結の中で、各共和国は次々に独立を宣言、いくつかの地域で深刻な紛争となり、とりわけボスニア・ヘルツェゴビナは、激しい内戦となって、多くの命が奪われた。このあたりはリアルタイムでもいちおう知っていた(つもりであった。)。個人的にそれなりにこの地域には興味関心があり、当時も何冊か本を読んだりしていたが、モザイク国家と言われたこの国での内戦は、およそ解決する余地はないのではないかなどと、当時思ったものであった。


アルバニアは、かつて共産主義国家としてソ連とも中国とも袂を分かち、「東欧の孤児」などといわれていた国。高校のころ地理の授業で東欧の調査発表担当となった際に調べて、国中にトーチカを作っているという話を聞いていた。どのような国なのだろうと大変興味深かったが、人々の活動は活発(活発すぎて、車の数が尋常ではなく、道路の車線数よりも多い列の車が大渋滞をなして、交通麻痺と大気汚染が日常というような印象であった。)。もう、旧体制のころを知っている世代もかなり上の方になっているのだろう。観光資源として使われているトーチカにも入ってみたが、地下に張り巡らされた多くの通路や司令室(独裁者ホッジャの席もあった)、また大きな劇場まであった。これが実は1970年代以降という比較的新しい時代に作られていたこと、その参考にしたのが北朝鮮であったというのも驚きであった。


30年前、前記したような紛争のまさに渦中にあったサラエボにも行くことが出来た。前記暗殺事件の舞台となったほか、1984年には冬季オリンピックが開催されたこともよく記憶している(スピードスケートの500メートルで黒岩彰が金メダルを期待され、途中途切れ気味の衛星生放送を深夜に見ていた記憶。4位に終わったが。)。そしてその後の内戦。当時の断片的な記憶は、いくつもの博物館等の見学で、ありありと甦った。というよりも、時系列的な記憶が今や正確でなくなっていたことにも気づくことになった。

サラエボは、93~95年までの千数百日間、セルビア人勢力(ボスニア国内ではカラジッチが牽引。本国のミロシェビッチもバックアップ。)による包囲に晒された。その日数は、ナチスドイツに攻められたレニングラード(サンクト・ペテルブルグ)のそれよりも長かったという。街中至る所でセルビア人勢力のスナイパーが市民を無差別に攻撃し、市民の犠牲者は1万数千人に及んだそう。また、ボスニア東部のスレブニッツアは、国連PKOにより安全地帯と指定されていたのに、そこに避難したムスリム人たちは、男性は多くが虐殺され、女性はレイプされたという。展示場には、入り口に入ったその場に、多くの殺された人たちの顔写真が壁一面にかざされていた。男性たちが殺害されるところを移した生々しい動画も多く放映されていた。国連PKO(PKFではない)は機能しなかったという。国連軍として現地に駐留したオランダ軍の軍人が、「UN=united nothing」と書き殴り、無力感をあらわにしていたという画像もあった。他方、セルビア人勢力の攻勢に対する形で、当時ベオグラード(セルビア)をNATO軍が空爆したことがあったが、これに対し、名古屋グランパスに所属していたストイコビッチが、自らのゴール後に空爆への抗議の姿勢を示した(これを政治的行動ということで後日制裁があったかも)ということも記憶として甦った。内戦は96年に最終的に停戦、その後、この戦争に向けられた国際軍事法廷が開設され(国際刑事裁判所が開設する前のこと)、前記ミロシェビッチやカラジッチがジェノサイドの罪で裁かれることとなった。

多くの犠牲は取り返しのつかないことで、当然ながら、未だにわだかまりは多く残っていると思われる。しかし、サラエボは少なくとも表面的にはおちついており、観光客も多く、多くのモスクから決まった時間にアザーンが流れ、観光客が多く訪れる旧市街にもトルコっぽいお店がたくさん軒を連ねて賑やかであった。ボスニアからバスでセルビアへ向かったのだが、途中、突然「ようこそスルプツカ共和国へ」という看板が現れる。ボスニア国内のセルビア人共和国との境を越えたということである。そしてセルビアへ入ってゆく。セルビア人勢力による多くの蛮行を見せつけられたあとだったので複雑な心境もあったが、大都会ベオグラードも平穏にセルビア正教のクリスマス(1/6まで)を皆が楽しんでいる感じであった。

サラエボやスレブニッツアの殺戮行為は、当然ながらウクライナやガザを想起させる。ボスニアは今は落ち着いたが、同様のことは世界中でなお発生し続けている(皆忘れているだろうが、ミャンマーも然りである。個人的にはこのことはずっと気になっており、決して忘れないようにと思っている。何かほんの少しでも支援が出来ればとも。)。そして、バルカンでもまたいつ同様のことが起きるのか、との懸念もおそらくあるのだろう。今回訪れた他の地域のうち、コソボ(アルバニア人系)はセルビア(及びロシア)が未だに独立を認めていないが、他方で米国が相当支援をしているようで、ビル・クリントン通りはあるし、周囲は他の都市と比べても際だって高層マンション等の開発が進んでおり(いびつとも思えるほど中心部との差異が激しいということ。他方で以前はかなり激しく破壊されていたらしい。)、支援の一環だろうかフロリダから来ているという化学の先生にも出会った、さらにユーロに入っていないのにユーロが普通に使われていた。他方、ベオグラードへ向かう道は途中から急に高速道路となり、やはり予想通り中国の支援により建設されたものだとのことである。マケドニアはギリシャから国名を名乗るなと言われて「北」マケドニアとなっている。期せずして、年明けにボスニア出身のイビチャ・オシムについての番組をテレビでやっていたので、録画してみたが、こちらは逆に旧ユーゴスラビア解体と旧ユーゴ代表チームの解体へ向けての無念、そして日本代表監督も担うなどした後にオシムが母国ボスニアの3分裂したサッカー協会をなんとかとりまとめて、ついにW杯ヨーロッパ代表にボスニア代表を導くに至った経緯を流していた。旧ユーゴスラビアという国のあり方自体が、大変実験的なものであったのかも知れず、またチトーという一人のカリスマ的独裁者の求心力(時に弾圧)によってなんとかまとまりを保っていた(それ故チトーの死から,冷戦終結もあったものの、10年もしないで完全に国はバラバラになった)、そのような中でも、人間一人ひとり同士の関係は、当然民族とか宗教等によって分かれるものではないはずであり、ボスニアチームのまとまりはまさにそのような背景によって成り立っていたのであろう(実際はボスニア国内のクロアチア人はクロアチアで,セルビア人はセルビアで代表入りするパターンが多いとのことではあったが。)。


ドブロブニクやコトルという観光地も訪れることが出来、その美しい景観に強く感銘したところでもあったが、やはり前記したようなさまざまな歴史をはらみながらも、この地域においていろいろな人々が、宗教、言語、民族等まさに多様な背景をもって共存している、そのような姿を目の当たりに出来たことは貴重な経験であった。それにしても、中国人も含めアジア人にはほとんど会わない日々であった。

ろっくおじさんの戯言

ビートルズが全米制覇をした年に生まれた男(いちおうべんごし)が、音楽ネタや日々の雑感を綴る。仕事には役に立たないブログ。

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