渋谷陽一逝く

ひょんなことから、ウェビナー研修の動画を撮ることになり、先日その段取りをした。

できあがってきた動画を見ていると、内容的になんともなあ、と思うところももちろんあったのだが、それよりも、語り口に、誰かの影響が(ひとりよがりにも)感じられていた。

たぶん、影響を与えたその張本人は、そんなこと思うはずもないのだが、

何か、そんなことを感じたのである。


そのような思いを抱いてから半月も経たず、訃報を耳にすることとなった。


渋谷陽一。

知る人ぞ知る、なのだろうけれども、同世代の一定数には、相当の影響力があった人物だと思う。

「ロッキング・オン」の創刊者であり、またラジオのDJ。出版の分野でも音楽雑誌にとどまらず活動の場を広げ、また今ではすっかり定着している日本人バンドの夏フェス「ロック・イン・JAPAN」を長く企画、運営してきた人物。

この人と最初に接したのは、たぶん小6か中1の頃に初めて聞いた「ヤング・ジョッキー」。

NHK・FMで、土日に週2回(だったと思う。週1回だった?)やっていたが、英米のロックを取り上げていて、その内容がまだビートルズやクイーンその他、流行り物しか知らなかった当時の自分にとっては高度で、それでもいつもとてもわくわくし、毎週楽しみにしていた(必ず聞いていたわけではないが)ことを覚えている。いたいけな子どもを、ハードロックやプログレの深い森へと誘ってくれた。プログレの人気投票とかをやって、なぜかヴァン・ダー・グラフ・ジェネレーターなどというマニアックなバンドが(組織票で)上位に入っていたり、またもっと広い人気投票をやると、いつもツェッペリンが1位だったり等、偏りもあったが(笑)、いずれにしても、その後のこの分野への、未だに戻ってこられない現在に至る道筋を与えてくれた、そのような番組であり、人物であった。

また、「ロッキング・オン」という雑誌が、かつてはとても手作り感が強く、ミュージック・ライフや音楽専科のようないわゆる情報誌と言うよりも、好きな人たちが勝手なことを書いているミニコミ誌の風情で(少なくとも高校の頃くらいまでは。架空インタビューとか、独自の解釈での音楽評なども)、なんというか、まだ中学くらいのころから、サブカルの世界に足を突っ込んだ(突っ込んでいる)感を与えてくれ、なんというか、時代の先端にいるような感覚を与えてくれるような(誤解だったのかもしれないが)ところもあった。

渋谷氏の番組は、その後「サウンド・ストリート」という名前に変わり、さらに、ここ10数年は、「ワールド・ロック・ナウ」というダサい名前(笑)に変わって、なお一昨年秋まで継続していた。一昨年秋まで。

彼の何がすごかったかと言えば、この2020年代の、ロック不毛のような時代になっても、なおコンテンポラリー・ミュージックへの関心を失うことなく、新しいバンドやミュージシャンを紹介し続けていたことであった(それは国内外問わない)。私の方はといえば、やはり何才になっても、コンテンポラリーな音楽への関心は失わないでいたい、と思っていたのだが(だから最近でも夏フェスとか行ったりしている)、正直、最近はちょっと無理かな、と思いつつあり、番組でかかる曲にもあまりわくわく感もなかったりして、番組自体は録音をしても、聞かないでそのままにしていたりであった(だから、結構たくさんの「ワールド・ロック・ナウ」が、未聴のまま保存されている・・)。


80年12月にジョンレノンが殺されたとき、「スーパースターになっても殺されない方法」という文章を書いたり(それはのちに、デヴィッド・ボウイが実践していったことと結果的に一致するところになったと、私は思っている)、やはり80年にトーキング・ヘッズの「remain in light」がリリースされたとき、多くの大絶賛する向き(今野雄二とかいたな)に対し、黒人ミュージシャンをたくさんメンバーに加えることでパワーアップしたその手法に異論を唱え、あえて論争を挑んだり(もっとも、このアルバムは正直名盤としか言いようがないが)、ある種の大げさな売れ線ロック(ジャーニーとか)に「産業ロック」と命名し、また、「ヘヴィ・メタルはゴミじゃ」と言ってくれたり、プリンスの「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」が出たときに謝ってくれたり等々(何を言っているのかよくわからないだろうが、そう言ういろんなことがリアルタイムであったのである)、本当に思い出は尽きない(笑)。大学を留年していた1987年頃だったと思うが、どこかのサークルの企画で、渋谷氏と鴻上尚史氏の対談というのがあったのだが、会場にいた多くの学生が、当時人気のあった鴻上氏ではなく、渋谷氏目当てで来ていることが途中でわかり、出る質問が皆渋谷氏宛で、最後には、「渋谷さん。私は新潟の地で、いつもラジオを聞いていました。今日ここで、「こんばんは。渋谷陽一です」と一言言って下さい。」などという要望まで出てしまった(渋谷氏は、ノーギャラの時は言わないことにしていると答え、やはり会社経営者だな、などと妙に納得したことを覚えている)。

本当に、いろいろな影響を与えてくれ、目を開かせてくれ、また思い出を残してくれた人だった。ときどき不正確だったり、間抜けなことも言ってくれたりしたこともご愛敬であった。死去のニュースの下の方にでているいろんな人のコメントの一つ一つが、どれもうん、うんと頷かせてくれるようなものばかりで、本当に涙が出る。

伊藤正則氏だったか、彼は生き急いだのかもしれない、などとコメントしていたが、やはりそうだったのだろうか。おととしの秋に突然番組が中断され、ロッキング・オン社の役員を降りる、というとても速やかな対応がされた時点で、ただ事ではないと思ってはいた。しかしこの間、病状とか近況についての情報はほとんど出ていなかった。周囲がしっかりガードしたのだろう。しかし、それにしても74才は今の時代には若すぎた。少なくとも自分が仕事をリタイアする頃までは元気で活動やコメントを続けてほしかった。

今は、率直に、「ありがとうございました。」と言いたい。

正直、1つの時代がまさに終わった感が強く、寂しい。


ろっくおじさんの戯言

ビートルズが全米制覇をした年に生まれた男(いちおうべんごし)が、音楽ネタや日々の雑感を綴る。仕事には役に立たないブログ。

0コメント

  • 1000 / 1000