洋楽ロック遍歴③(1978年~うえちゃんが開いてくれたロックへの道)

1978年。
日本ではやった洋楽としては、サンタエスメラルダ「悲しき願い」(アニマルズのカバーです)、ビリージョエル「ストレンジャー」、それに、当時「ソフト&メロー」とか、後にアダルトコンテンポラリーなどと呼ばれた、幾分大人っぽいムードの音楽(例えば、ボズスキャッグス、ボビーコールドウエル、ディックセントニクラウス(←一発屋)とかいったあたりか)でしたか。

私は、洋楽ヒットチャートや、全米トップ40、また時に渋谷陽一氏の「ヤング・ジョッキー」あたりから情報をぼちぼち得ながら、いろいろと聞き始めてました。

この年に、同じクラスになった「うえちゃん」は、私の音楽的な嗜好に、決定的な影響を与えてくれました。ツェッペリン、パープル、キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、イエス等々、ハードロックやプログレへの道案内をしてくれました。高校に入ってからですが、トーキングヘッズの「リメイン・イン・ライト」というアルバムも、うえちゃんの薦めでした。

「うえちゃん」は、あまり学校には来ませんでしたが、日曜日になると、何人かで「うえちゃん」ちに出掛け、まだねている「うえちゃん」を起こし、いろんなレコードをだらだらと聴き、「俺の空」を読み、昼には出前のラーメンを食い、夕方だらだらと帰って行く、というようなことをしたりしていました。

「うえちゃん」は、中2,3年だったこのころ、既に三島由紀夫を何冊も読破していました。私は、太宰治は読んではいたものの、三島由紀夫にはなかなか手が届いてませんでした。

一度、なんとか学校に行かせたい思いから、用務員室まで来ていたのを、強引に教室へ連れて行こうとしたことがありました。数人がかりでしたが、ものすごい力で抵抗されました。今だったらこんなことはもちろんしませんが、当時は、学校へはとにかく来てほしい、そんな一心だったのだと思います。学校というのは、皆なるべく欠席せず、行かなければならないところなんだと、思い込んでいたので。
まあ、無関心なのよりはいいのかな。
うえちゃんちは遠かったので、3年の時は学校に頼み込み、自転車通学を認めてもらって、手分けして朝声かけに出向いていました、なんてやはり優等生的ですが、まあ、そんなこともありました。

2年生のおわりのころだったか、学校に来た日に音楽の授業で、好きな曲をかけてよい、というのがあり、うえちゃんは、たにさんらといっしょに、キングクリムゾンの「21世紀の精神異常者」と、「エピタフ」をかけました。案の定、誰もろくに聞いておらず騒ぎ放題で、うえちゃんは、「こんなにひどいとは思わなかったよ」とがっかりしていた。

中学卒業の日、うえちゃんちに数人で集まり、ブルーフィルム(知ってる?)の鑑賞会をし(途中でテープががやけそうになりあせった)、夜はそのまま泊まって赤玉ハニーワインですき焼きパーティーをしたのも、懐かしい思い出です。

うえちゃんは、中学卒業後、就職しました(したと思います。今思えばあまりそのような話しはしなかった。)。
私の高校、大学進学後も、うえちゃんとのつきあいはちょこちょこ続いてましたが、20歳過ぎたあたりから、うえちゃんは、私のみならず、他の連中ともなぜか距離を置くようになったようです。

中学の卒業アルバムに、私は意味もなく、当時売れていたピンクフロイドの「ウォール」というアルバムジャケットを模した(ような)絵を書きました。単なる雰囲気、ファッションです。
「うえちゃん」はそのアルバムに、「竜二はなお、夢想に簸りながら、熱からぬ紅茶を、ぞんざいに一息に飲ん だ。飲んでから、ひどく苦かったような気がした。誰も知るように、栄光の味は苦い。」「世界は単純な記号と決定で出来上がっている。」という、どこかから引用したらしい文章を書きました。

これらの文章が、三島の「午後の曳航」の中の行であることを私が知ったのは、30数年後のつい最近のことです。

ろっくおじさんの戯言

ビートルズが全米制覇をした年に生まれた男(いちおうべんごし)が、音楽ネタや日々の雑感を綴る。仕事には役に立たないブログ。

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