「勉強する」「勉強した」

以前、札幌市だかの議員が、「アイヌ民族は日本には存在しない」と発言し、物議を醸したことがあった。

発言に対し、各方面から批判が相次いだが、これに反論したくだんの議員は、「そんなことも知らないのか。もっと勉強してください。」というような趣旨のことを言ったらしい。ところが、くだんの議員がした「勉強」というのは、ウィキペディアを読んだ、と言うことだったそうである。
(なお、くだんの議員は、発言を「撤回しない」と頑張っているそうである。なんのためなのやら・・・(哀)。)

それにしても、どうしてこう「勉強する」「勉強した」と発言する輩が多いことか。
とりわけ、それなりの立場に立っている人物による、「勉強した」という発言。

私の解釈では、「勉強した」状態というのは、ある問題について、あらゆる関連資料にあたり、これを自ら咀嚼し、自分の言葉で正確に語ることが出来、質問に対しても自分の言葉で的確に答えられるようになった、そのような状態である。

そのような状態になるというのは、大変なことである。少なくとも私には、「勉強した」などと堂々と言えるジャンルは「全く」ない。時々音楽に関することをいろいろ書き連ねるが、書いていると、なんて自分に正確な知識が欠けているのかと愕然とすることばかりである。もちろんのこと、音楽に関し「勉強した」などと書いたことは一度もない(と思う)。

何となく、「勉強した」発言と、「公募議員」「公募区長」「公募校長」などがダブってしまうのは、私だけだろうか(多分そうだろう。発想が?不明、だろう。)。
「勉強した」なんて言ってもらわなくたって、まわりがそのように認める人は、「勉強した」人として見られるはず。
自分で「勉強した」などと触れ回っている人を、本当に「勉強した」人とはやはり見がたいだろう。
かつて選挙について「出たい人より出したい人」なんてことが言われたりしたが、これにも通じるか。

「勉強した」というのは、それだけ重い発言なんだと思うけど。

ろっくおじさんの戯言

ビートルズが全米制覇をした年に生まれた男(いちおうべんごし)が、音楽ネタや日々の雑感を綴る。仕事には役に立たないブログ。

0コメント

  • 1000 / 1000