インターネットが世界中に行き渡り、
ネットへの接続環境さえあれば、誰でも自分の見解を発信できるようになった。
これは、ある意味究極の「民主的な社会」なのかもしれない。
これまでは、巨大メディア等に取り上げられなければ発信できなかった人々も、
皆が「同格」で発信できるのだから。
少なくとも、そのような機会は平等に与えられてはいるということ。
しかし、ここにいう「同格」というのが、本当にそうなのか、と言う問題はある。
結局のところ、いかに「大きな声」で、刺激的な言葉で、
挑発的な内容を発信しているか、によって、
その内容がフェイクかどうか、根拠薄弱かどうか、に拘わらず、拡散することとなる。
海の向こうの与太者の例を引くまでもなく、
ネット上ではほんとうに、玉石混淆の、クソミソいっしょの情報が蔓延している。
この中から、適切な情報をきちんとチョイスするというのは、本当に至難の業。
そもそも、「適切な情報をチョイス」などという考えでネットに向き合っている人も、どの程度いるものか。
大きな権力に向かうような場合には、ある程度まとまって大きな声を上げてゆく、と言うのも、当然容認されるべきことなのだとは思う。
しかし、実は「大きな権力」というのが、人によってそのとらえ方が違っている部分もある。
だから、本来はあるべき姿を維持しているだけのところに、
それをやれ「既得権益」だ、「旧態依然態勢」だなどという
タームをちりばめながら「抗議」してゆき、その連中に都合のよいような態勢を作り上げる、
そんな動きもあるように思えてならない。
最近思うのは、こういった連中の緩い連携の危険性(例えば、モラ夫)。
そういった連携が、美辞麗句やいかにもの理屈に支えられて、水面下で伸びているような気がしている。
その中で、誰か有力者と呼ばれる人物(自身がそう思っている場合も含む)が、
言わば「広告塔」のように、
ネット上で発言をする。
その発言は、個人的な経験に基づき、かつ極めて個人的な事柄だったりする。
しかも、一方的であったりする。
それを、あたかも普遍的な問題であるかのように、
多くの「善良な市民」「同じ境遇の市民」のルサンチマンの代表・代弁者であるかのように。
これに対し、組織化されない、例えば「モラ夫」でいることが都合がよい連中が、見えないところで喝采する。
さらにそこに群がる●●やら××やら。
こういった言動を無批判に受け止めてコメントする電波芸者やら。
こういった流れが、知らず知らずのうちに世論を形成し、
法改正へと繋がる。
こんな動きが、このネット社会の中で、
ますます強まってゆくように思えてならない。
そんな中で、ネット環境の中でも大きな声を上げられない人々、
そんな時間も、パワーもない、日々の生活で精一杯、
そのような世論形成で追い詰められる人々は、
どうしたらよいものか。
とりあえず、自分だけでも、
また、自分の立場としても、
こういうことを注視してゆかなければならないと思っている。
ネットへの接続環境さえあれば、誰でも自分の見解を発信できるようになった。
これは、ある意味究極の「民主的な社会」なのかもしれない。
これまでは、巨大メディア等に取り上げられなければ発信できなかった人々も、
皆が「同格」で発信できるのだから。
少なくとも、そのような機会は平等に与えられてはいるということ。
しかし、ここにいう「同格」というのが、本当にそうなのか、と言う問題はある。
結局のところ、いかに「大きな声」で、刺激的な言葉で、
挑発的な内容を発信しているか、によって、
その内容がフェイクかどうか、根拠薄弱かどうか、に拘わらず、拡散することとなる。
海の向こうの与太者の例を引くまでもなく、
ネット上ではほんとうに、玉石混淆の、クソミソいっしょの情報が蔓延している。
この中から、適切な情報をきちんとチョイスするというのは、本当に至難の業。
そもそも、「適切な情報をチョイス」などという考えでネットに向き合っている人も、どの程度いるものか。
大きな権力に向かうような場合には、ある程度まとまって大きな声を上げてゆく、と言うのも、当然容認されるべきことなのだとは思う。
しかし、実は「大きな権力」というのが、人によってそのとらえ方が違っている部分もある。
だから、本来はあるべき姿を維持しているだけのところに、
それをやれ「既得権益」だ、「旧態依然態勢」だなどという
タームをちりばめながら「抗議」してゆき、その連中に都合のよいような態勢を作り上げる、
そんな動きもあるように思えてならない。
最近思うのは、こういった連中の緩い連携の危険性(例えば、モラ夫)。
そういった連携が、美辞麗句やいかにもの理屈に支えられて、水面下で伸びているような気がしている。
その中で、誰か有力者と呼ばれる人物(自身がそう思っている場合も含む)が、
言わば「広告塔」のように、
ネット上で発言をする。
その発言は、個人的な経験に基づき、かつ極めて個人的な事柄だったりする。
しかも、一方的であったりする。
それを、あたかも普遍的な問題であるかのように、
多くの「善良な市民」「同じ境遇の市民」のルサンチマンの代表・代弁者であるかのように。
これに対し、組織化されない、例えば「モラ夫」でいることが都合がよい連中が、見えないところで喝采する。
さらにそこに群がる●●やら××やら。
こういった言動を無批判に受け止めてコメントする電波芸者やら。
こういった流れが、知らず知らずのうちに世論を形成し、
法改正へと繋がる。
こんな動きが、このネット社会の中で、
ますます強まってゆくように思えてならない。
そんな中で、ネット環境の中でも大きな声を上げられない人々、
そんな時間も、パワーもない、日々の生活で精一杯、
そのような世論形成で追い詰められる人々は、
どうしたらよいものか。
とりあえず、自分だけでも、
また、自分の立場としても、
こういうことを注視してゆかなければならないと思っている。
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