このような標題をつけると、人によっては、全然違う問題をむりやりこじつけている、等と言い出すのだろう。
ただ、個人的には、この両方の問題には、通底している部分があると考えずにはいられない。
天皇が代替わりしたが、次の天皇候補者は、順位は別として、やはり弟の息子だろう。
今の制度枠組みで言えば。
おそらく、それは20~30年先だから、いまガタガタ言わなくても、うまく収まると、論者は高をくくっている(と言うか、祈っている)のだろう。平沼騏一郎元首相の息子だか孫の発言が、まさにそういうものだった。
天皇制のあり方についての議論は、改憲派の一部が強力な発言力を持ち、「万世一系(男系での)」などとフィクションを語り続ける以上、進まないのであろう(圧力団体ないし同様の趣旨の勢力としては、ちょうど、銃規制の進まない米国におけるライフル協会と同じような位置づけなのだろう。)。
だから、女性・女系天皇論の議論も、(少なくとも今の政権では)進みようがない。新憲法下の象徴としての天皇のあり方を議論、などといっても、これら一部の勢力とは前提の立つ場所が違うから、議論になりようがない(議論に乗ってこない)のだろう。
しかし、本当に天皇制という日本独特の「型」を残したいと真剣に考えるのなら、女性・女系天皇論は避けて通れないはず。誰が見ても、制度としての破綻は目前に迫っていると言わざるを得ない。
そのことをスルーしようとする連中は、いくら「美しい国なんちゃら」などとのたまおうが、天皇制それ自体への向き合い方としても、不誠実極まりないとしか言いようがない。
私は、この不誠実な人々の背景にあるものと、DV(とりわけモラハラ)問題の背景にあるものとは、やはり通底しているものと考えている。
すなわち、それは「女性蔑視」である。
新皇后は、結婚後なかなか子供が出来ず、ようやく女児に恵まれたのに、その後も周囲からいろいろと(「男児を産め」という類のことだろう。)非難されるなどして、その後体調を崩した。新天皇が当時、「(新皇后の)人格を否定するような発言は許せない。」と、記者会見で述べたことは、記憶に新しい。
こういった新皇后に対する対応がなされる背景に、「男性・男系天皇」に拘る制度の破綻が見えていることはもちろんであるが、現代人の普通の感覚で考えれば、これは「皇室に迎えた女性に男児を産むこと」という無理なことを強いること、すなわち、その女性に対する「人格否定」であることは明らかである。皇室が言わば三顧の礼をもって(本人が消極的であったにも関わらず)招いたはずの相手に、そのような対応をするなどというのが、女性蔑視でなくてなんなのだろうか(こういうとすぐに、反動的な天皇制論者は、「それとこれとは論点が違う。天皇制というものは・・」などというのだろう。しかし、自由で民主的な社会を前提とした天皇家が、民間からお后候補を招いた時点で、そのような反動的な論は前提を失ったと言わなければならないはずである。何より、そもそもこんな、人間性を否定するような対応は、反動クン達が何かと賞揚する「道徳教育」の精神にももとるのではないか?)。
そして、こういったものがなおも維持され、支えられる背景に、男性らに根強い「女性蔑視」感覚があることは、残念ながら間違いないであろう。蔑視感覚がないのに、前記したような対応をやむをえないもの、などとスルーできるという感性自体、およそ考えがたいからである。
「女性活躍社会」などと言うが、多くの男性の中に、女性に活躍されたくない、女性にいろいろ言われたくない、女性より上にいたい(女性に上に立って欲しくない)、などという潜在的な感覚は、まだまだ根強く残っていると思われる。それでも、皇室のようなところではない一般の社会においては、少なくとも表面的には、それが許されない土壌が出来てきている。しかし、なおも潜在的に存するそのような蔑視感覚が噴出する場所が、まさに外から見えない「家庭内」ということなのだろう。
この問題の解決はまだまだ遠いのではないかと、ため息が出ることも少なくない。しかし、少しずつでも前に進みたいものである。
こういった問題が昔のことになるのと、シンギュラリティの到来、どっちが先になることやら・・。
ただ、個人的には、この両方の問題には、通底している部分があると考えずにはいられない。
天皇が代替わりしたが、次の天皇候補者は、順位は別として、やはり弟の息子だろう。
今の制度枠組みで言えば。
おそらく、それは20~30年先だから、いまガタガタ言わなくても、うまく収まると、論者は高をくくっている(と言うか、祈っている)のだろう。平沼騏一郎元首相の息子だか孫の発言が、まさにそういうものだった。
天皇制のあり方についての議論は、改憲派の一部が強力な発言力を持ち、「万世一系(男系での)」などとフィクションを語り続ける以上、進まないのであろう(圧力団体ないし同様の趣旨の勢力としては、ちょうど、銃規制の進まない米国におけるライフル協会と同じような位置づけなのだろう。)。
だから、女性・女系天皇論の議論も、(少なくとも今の政権では)進みようがない。新憲法下の象徴としての天皇のあり方を議論、などといっても、これら一部の勢力とは前提の立つ場所が違うから、議論になりようがない(議論に乗ってこない)のだろう。
しかし、本当に天皇制という日本独特の「型」を残したいと真剣に考えるのなら、女性・女系天皇論は避けて通れないはず。誰が見ても、制度としての破綻は目前に迫っていると言わざるを得ない。
そのことをスルーしようとする連中は、いくら「美しい国なんちゃら」などとのたまおうが、天皇制それ自体への向き合い方としても、不誠実極まりないとしか言いようがない。
私は、この不誠実な人々の背景にあるものと、DV(とりわけモラハラ)問題の背景にあるものとは、やはり通底しているものと考えている。
すなわち、それは「女性蔑視」である。
新皇后は、結婚後なかなか子供が出来ず、ようやく女児に恵まれたのに、その後も周囲からいろいろと(「男児を産め」という類のことだろう。)非難されるなどして、その後体調を崩した。新天皇が当時、「(新皇后の)人格を否定するような発言は許せない。」と、記者会見で述べたことは、記憶に新しい。
こういった新皇后に対する対応がなされる背景に、「男性・男系天皇」に拘る制度の破綻が見えていることはもちろんであるが、現代人の普通の感覚で考えれば、これは「皇室に迎えた女性に男児を産むこと」という無理なことを強いること、すなわち、その女性に対する「人格否定」であることは明らかである。皇室が言わば三顧の礼をもって(本人が消極的であったにも関わらず)招いたはずの相手に、そのような対応をするなどというのが、女性蔑視でなくてなんなのだろうか(こういうとすぐに、反動的な天皇制論者は、「それとこれとは論点が違う。天皇制というものは・・」などというのだろう。しかし、自由で民主的な社会を前提とした天皇家が、民間からお后候補を招いた時点で、そのような反動的な論は前提を失ったと言わなければならないはずである。何より、そもそもこんな、人間性を否定するような対応は、反動クン達が何かと賞揚する「道徳教育」の精神にももとるのではないか?)。
そして、こういったものがなおも維持され、支えられる背景に、男性らに根強い「女性蔑視」感覚があることは、残念ながら間違いないであろう。蔑視感覚がないのに、前記したような対応をやむをえないもの、などとスルーできるという感性自体、およそ考えがたいからである。
「女性活躍社会」などと言うが、多くの男性の中に、女性に活躍されたくない、女性にいろいろ言われたくない、女性より上にいたい(女性に上に立って欲しくない)、などという潜在的な感覚は、まだまだ根強く残っていると思われる。それでも、皇室のようなところではない一般の社会においては、少なくとも表面的には、それが許されない土壌が出来てきている。しかし、なおも潜在的に存するそのような蔑視感覚が噴出する場所が、まさに外から見えない「家庭内」ということなのだろう。
この問題の解決はまだまだ遠いのではないかと、ため息が出ることも少なくない。しかし、少しずつでも前に進みたいものである。
こういった問題が昔のことになるのと、シンギュラリティの到来、どっちが先になることやら・・。
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