毎週金曜日の朝、浦和駅前で、従前からいるいわゆる「右翼」(最近はこう言うのでない草の根右翼とかネット右翼とかいろいろと出ているが、もっと以前から活動している、まあ生業右翼かな)が、ロータリーの一部を占拠して、(・・おっとこんな言葉使うと街宣車回される→)使って、持論を展開していることは、以前にも書いたと思う。
昨日もまた、いつもと同じ光景で、こちらは出勤の足を止めることなくいつもと同じように通り過ぎる。
ところが、この日はなんとなく話すトーンが違っていた。何か弁解めいたことを言っていたのである。
立ち止まってきちんと聞いていたわけではないので、その内容を正確には把握していないが、要は、例の丸山ホダカ議員(維新の会除名)の、北方領土視察の際に旧住民の訪問団員に、「戦争するしかないんじゃないですか?」とのたまった件に触れていたようで、どうも、話の感じだと、ホダカ議員の言い分には一理ある、というようなニュアンスのことを話していたようなのである。
その際に、印象的だったのは、この右翼が、「どんな発言をしても自由である」ということを言っていたことである。
どんな発言(もちろん、公序良俗に反するものはともかく、なのだろうが)でもOK、それって、言論の自由が保障されていると言うこと、つまり、現行日本国憲法を前提とした発言ですよね。
これら右翼の話の内容というのは、常に、日本国憲法の改正、それも大幅な、戦前のような内容に返るということが大前提にあるはず。戦前憲法では言うまでもなく、言論の自由は制限されていた。中華人民王朝の支配下なら、これら右翼の言論は、明らかに弾圧されるであろう。
つまり、これら右翼が自由に発言できるのも、現行憲法で言論の自由が保障されているからこそのこと(日本が、中華人民王朝のような体制ではないからこそのこと)なわけ。
この右翼クンは、まさにこれを自認した。いつもこの輩の話を聞きながら、「でもお前らの発言の自由も現行憲法で保障されているんだろ?現行憲法が言論の自由に制限をかけていたらお前らもそんな発言できないんだろ?」などと頭に思い浮かべて通り過ぎていたが、まさにこの思いの裏が取れた、という感があった。
右翼クン、君たちも現行憲法の「表現の自由」規定を支持しているんだね。してないっていったら、自己否定になっちゃうよ。
ところで、ホダカ議員だけれども、わりと新興の高校から東大に入り、経産省の官僚を経て、議員になったそう。
東大とか京大に入るような人は頭が良く、だから人格的にも優れているという幻想は意外と社会的にも浸透しているらしいが、そんなのは個別のことというのは当たり前。財務事務次官のセクハラおやじを見るまでもなく、どうしようもない奴はどうしようもない。
まあ、今回のホダカ議員、これまでにない踏み込んだ発言をなさった(少なくとも,このようなレベルの発言はかつて聞いたことがなかった)わけだが、根本的には反省してないよう。なぜなら、所属政党から発言内容を元に除名までされたのに、議員を辞職しないのだから。
つまり、あの発言は、その信念に近いところからの発言だったのだろう。そのような信念に基づき、今後も「国会議員」として活動してゆこうというのであろう。
ここから先は、全くの個人的な印象を語ることとなるが、
昨今東大の卒業生が官僚を目指すことが減っているとのこと。官僚というものについての考え方、ないし評価は、どの方向から光を当てるかで変わってくるので、一概には言えないけれども、まあ、憲法に言う「全体の奉仕者」である公務員の,その頂点にある存在とは言えるだろう。それは「一部の奉仕者ではない」のだから、そこには(少なくとも公然とは)党派制はない。仮に政権交代があったとしても、もちろん政権の一定の政策にはそう活動をするとしても、時には「面従腹背」をもって行動をするものなのだろう。
官僚には、政治家が、その背景にある圧力団体・利益団体等の意向に沿った突っ込みをしてきても、これを鵜呑みにせずに、いろいろな観点からさまざまな対処をしてゆくべき責務がある。それ故、官僚には本来、一定のバランスが取れた、かつ高度な知識や思考方法が要求されるはずである。それ故、ある意味たいへん窮屈な役回りでもある。
たとえば最近アメリカのトップにいるらしい与太者のようなやつが、官僚として不適格であることは火を見るよりも明らかである。
そのような官僚を目指さず、民間を目指す。民間は、もちろん良くも悪くも、発想の幅は広く,自由である。つまり、右から左まで、上から下まである。制限は基本的にない。それこそ、ホダカ議員のような発想の人も、自由に活動ができる。
東大とかの連中が、官僚を目指さない、自由な発想の民間を目指す。ある意味、現代日本のような閉塞状況の中では、人材の向かい方としては望ましいのかもしれない。しかし他方で、自由な発想には「たが」がないから、バランスを失することも大いにあろう(個別業務の中で取引先等との関係で窮屈等のことは別問題)。つまり、一方のバランスに偏りすぎた人材が役所よりも多く出てきやすい面はあろう。
民間にいる分には構わない。しかし、そのような発想の人物が国政に登場し、しかも権力を持つような地位に行った場合、当然それは好ましい結果はもたらさない。
翻って、東大に入る連中、それこそ、(本当に優秀な一握りを除いて)システマチックになった受験システムの中で、相対的な競争に勝利して「トップ校」に入る、それまでに蓄積され培われた自分の発想方法やその中身に反省や振り返りの機会もないまま、いけいけで進み、官僚なんて息苦しく窮屈だなんて考え、民間へ向かう。ホダカ君のような発想の人物は、就職後も特に制約されることなく、起業しその発想のままで突き進む。
「北方領土を取り返すために戦争を考えよう」、そんな発想で意見表明するようになり、そのうち徒党を組み、国政へ・・。
そんなこともあったりするんじゃないか、などとつい思ってしまう。
良くも悪くも今は自民党が、チンゾウが頭ということもあり、極右に近いところまで取り込んで、一定の安定を築いているというパラドクシカルな状況がある(移民問題等の程度の差もあるが、現時点では嫌中嫌韓レベルではない、欧米的な排外主義が表立って強くなってはいない。)。しかし、ホダカの応援団も潜在的にはいるみたいだし、今後はこのような勢力がのしてくるおそれも大いにあろう。
いうまでもないが、ここでは「官僚」がよくて、「民間」が悪いなどとは全く言っていない。
自分自身「民間」の人間だし、J庁の役人の一部のまさに「親方日の丸」的な対応には、日頃辟易してるわけで。
でも、やはりホダカ君のような人材は、民間においてより多く、よりのびのびと活動するんじゃないか(ホリエなんちゃらとかいうやつとか)、それって、長い目で見て社会にとって本当にいいのか?などと思えて仕方ない。
いろいろな物の見方があり、結局、1つの見方を提示すれば、他の見方からの突っ込みはいくらでもあるところで、書いていてもなんだかすっきりうまく書けないものだ、なんて文章力も思考の組み立て力もないんだろう、とつくづく感じる。
何が言いたいのか分かってもらえただろうか。
昨日もまた、いつもと同じ光景で、こちらは出勤の足を止めることなくいつもと同じように通り過ぎる。
ところが、この日はなんとなく話すトーンが違っていた。何か弁解めいたことを言っていたのである。
立ち止まってきちんと聞いていたわけではないので、その内容を正確には把握していないが、要は、例の丸山ホダカ議員(維新の会除名)の、北方領土視察の際に旧住民の訪問団員に、「戦争するしかないんじゃないですか?」とのたまった件に触れていたようで、どうも、話の感じだと、ホダカ議員の言い分には一理ある、というようなニュアンスのことを話していたようなのである。
その際に、印象的だったのは、この右翼が、「どんな発言をしても自由である」ということを言っていたことである。
どんな発言(もちろん、公序良俗に反するものはともかく、なのだろうが)でもOK、それって、言論の自由が保障されていると言うこと、つまり、現行日本国憲法を前提とした発言ですよね。
これら右翼の話の内容というのは、常に、日本国憲法の改正、それも大幅な、戦前のような内容に返るということが大前提にあるはず。戦前憲法では言うまでもなく、言論の自由は制限されていた。中華人民王朝の支配下なら、これら右翼の言論は、明らかに弾圧されるであろう。
つまり、これら右翼が自由に発言できるのも、現行憲法で言論の自由が保障されているからこそのこと(日本が、中華人民王朝のような体制ではないからこそのこと)なわけ。
この右翼クンは、まさにこれを自認した。いつもこの輩の話を聞きながら、「でもお前らの発言の自由も現行憲法で保障されているんだろ?現行憲法が言論の自由に制限をかけていたらお前らもそんな発言できないんだろ?」などと頭に思い浮かべて通り過ぎていたが、まさにこの思いの裏が取れた、という感があった。
右翼クン、君たちも現行憲法の「表現の自由」規定を支持しているんだね。してないっていったら、自己否定になっちゃうよ。
ところで、ホダカ議員だけれども、わりと新興の高校から東大に入り、経産省の官僚を経て、議員になったそう。
東大とか京大に入るような人は頭が良く、だから人格的にも優れているという幻想は意外と社会的にも浸透しているらしいが、そんなのは個別のことというのは当たり前。財務事務次官のセクハラおやじを見るまでもなく、どうしようもない奴はどうしようもない。
まあ、今回のホダカ議員、これまでにない踏み込んだ発言をなさった(少なくとも,このようなレベルの発言はかつて聞いたことがなかった)わけだが、根本的には反省してないよう。なぜなら、所属政党から発言内容を元に除名までされたのに、議員を辞職しないのだから。
つまり、あの発言は、その信念に近いところからの発言だったのだろう。そのような信念に基づき、今後も「国会議員」として活動してゆこうというのであろう。
ここから先は、全くの個人的な印象を語ることとなるが、
昨今東大の卒業生が官僚を目指すことが減っているとのこと。官僚というものについての考え方、ないし評価は、どの方向から光を当てるかで変わってくるので、一概には言えないけれども、まあ、憲法に言う「全体の奉仕者」である公務員の,その頂点にある存在とは言えるだろう。それは「一部の奉仕者ではない」のだから、そこには(少なくとも公然とは)党派制はない。仮に政権交代があったとしても、もちろん政権の一定の政策にはそう活動をするとしても、時には「面従腹背」をもって行動をするものなのだろう。
官僚には、政治家が、その背景にある圧力団体・利益団体等の意向に沿った突っ込みをしてきても、これを鵜呑みにせずに、いろいろな観点からさまざまな対処をしてゆくべき責務がある。それ故、官僚には本来、一定のバランスが取れた、かつ高度な知識や思考方法が要求されるはずである。それ故、ある意味たいへん窮屈な役回りでもある。
たとえば最近アメリカのトップにいるらしい与太者のようなやつが、官僚として不適格であることは火を見るよりも明らかである。
そのような官僚を目指さず、民間を目指す。民間は、もちろん良くも悪くも、発想の幅は広く,自由である。つまり、右から左まで、上から下まである。制限は基本的にない。それこそ、ホダカ議員のような発想の人も、自由に活動ができる。
東大とかの連中が、官僚を目指さない、自由な発想の民間を目指す。ある意味、現代日本のような閉塞状況の中では、人材の向かい方としては望ましいのかもしれない。しかし他方で、自由な発想には「たが」がないから、バランスを失することも大いにあろう(個別業務の中で取引先等との関係で窮屈等のことは別問題)。つまり、一方のバランスに偏りすぎた人材が役所よりも多く出てきやすい面はあろう。
民間にいる分には構わない。しかし、そのような発想の人物が国政に登場し、しかも権力を持つような地位に行った場合、当然それは好ましい結果はもたらさない。
翻って、東大に入る連中、それこそ、(本当に優秀な一握りを除いて)システマチックになった受験システムの中で、相対的な競争に勝利して「トップ校」に入る、それまでに蓄積され培われた自分の発想方法やその中身に反省や振り返りの機会もないまま、いけいけで進み、官僚なんて息苦しく窮屈だなんて考え、民間へ向かう。ホダカ君のような発想の人物は、就職後も特に制約されることなく、起業しその発想のままで突き進む。
「北方領土を取り返すために戦争を考えよう」、そんな発想で意見表明するようになり、そのうち徒党を組み、国政へ・・。
そんなこともあったりするんじゃないか、などとつい思ってしまう。
良くも悪くも今は自民党が、チンゾウが頭ということもあり、極右に近いところまで取り込んで、一定の安定を築いているというパラドクシカルな状況がある(移民問題等の程度の差もあるが、現時点では嫌中嫌韓レベルではない、欧米的な排外主義が表立って強くなってはいない。)。しかし、ホダカの応援団も潜在的にはいるみたいだし、今後はこのような勢力がのしてくるおそれも大いにあろう。
いうまでもないが、ここでは「官僚」がよくて、「民間」が悪いなどとは全く言っていない。
自分自身「民間」の人間だし、J庁の役人の一部のまさに「親方日の丸」的な対応には、日頃辟易してるわけで。
でも、やはりホダカ君のような人材は、民間においてより多く、よりのびのびと活動するんじゃないか(ホリエなんちゃらとかいうやつとか)、それって、長い目で見て社会にとって本当にいいのか?などと思えて仕方ない。
いろいろな物の見方があり、結局、1つの見方を提示すれば、他の見方からの突っ込みはいくらでもあるところで、書いていてもなんだかすっきりうまく書けないものだ、なんて文章力も思考の組み立て力もないんだろう、とつくづく感じる。
何が言いたいのか分かってもらえただろうか。
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