ロシアが、ウクライナにある複数の原発を攻撃し、その支配下に置くなどしている。
全く、歴史上ない蛮行である。
それにしても、今回のことではっきりしたのは、
この「核抑止力」などというものが、結局のところ、「大国の大国としての自覚」を背景としてなり立っていたに過ぎないということ。
もっといえば、「大国を統治する者の自覚」、である。
核保有の大国の統治者が、今回のプーチンのように、自らの野望のみを考えて蛮行に及んだ場合、核抑止力は、全く反対方向に作用する。
すなわち、核を背景にし、核使用もちらつかせながら蛮行に及んでいる大国を、核戦争を懸念して止めることが出来ない、なので蛮行に及んだ大国は、もはややりたい放題となってしまう、ということ。
今回のことは、本当に国際政治や社会にとっての大変な悪先例となってしまっているが、のみならず、核抑止力というものの限界、ないしフィクション性も白日の下にさらしてしまった。
結局は、このような蛮行に及ぶ人物を出さないような政治体制の枠組みが重要ということになると言わざるを得ない。
そしてもう一つ。
原発の存在というのは、仮に今回のような暴挙に晒された場合、暴漢たる敵国のまさに必殺の兵器にもなり得るということ。実際にそれを行使しなくても、それを掌握することで脅しに使えてしまう、きわめて強力な武器となってしまうのだということも、改めてわかってしまった。
今回の件で、これも予想通り、日本の再軍備の必要性を訴える声が大きくなっているが、そういうことよりも、少なくとも、核抑止力や原発の存在が上記したようなものであることを十分理解した上での議論をなす必要があるのではないか?
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