ここ3,4年くらいにあったいくつかの出来事の影響からか、もともと低かった自己評価が本当に最近低くなっている。本当はこんなもんじゃないんだ、と言いたいわけではないのだが、何かを達成しても、それは当たり前のことをやったに過ぎないとしか思えず(あるいは、そのようにならなければいけないことがそのようになったに過ぎない、このケースではそのような結論が必然であった,等)、他方で少し落ち度というかマイナスのことがあれば、それが大変負担となりのしかかる(相手方からの攻撃とかはそれほどでもないのだけれども)。年齢的なものも相まってかもしれないが、ともすれば心理的な負のスパイラルに陥る。特に週明けはほんとうに気が重い。週末は気が楽である(仕事が仮にあっても)。
こういった負のスパイラルから、うつ状態に至ることがないのは、目の前のやらねばならないことが次から次へとやってくるからではある。その一つ一つをこなしてゆく、その中でもこんなレベルで・・と漠然と思い悩むことも続くのではあるが(気分の落ち込みには,必ずしも具体的な問題点が背景になく、ただ漠然としたものということが多い。いろいろと理屈詰めで考えていけばさしあたり克服できるものなのであろうが。)。
自己評価が低い、といえば、モラハラの被害者である。
日々、お前はダメだ、とか、お前はレベルが低い、とか、何々が出来てない、などといわれ続ければ、そりゃ自己評価も低くなる。その負担というのは、日々のことではあるので、1回、2回殴られたというよりはずっとストレス度が実は高いと思われる。低くなってしまっている自己評価は、(個人差はあれ)そこから回復させ、向上してゆこうにも、なかなかそれは容易なことではない。
しかし、そのようなモラハラ被害に対する、慰謝料的な水準は、未だに低いように思われる。
立証がどの程度できるかの問題とも思うが、そもそも、モラハラというものに対する適正・正当な評価が確立されていないところに問題があるように思われる。このようなケースについてはこのあたりのライン、というものが確立すれば、そこを出発点としての議論が出来るが、今はまだ漠然とモラハラ事案は実暴力事案よりも慰謝料額が低い、というような印象論で語られる部分が少なくないのではないかと思う。
このあたりも、できるかぎり証拠が揃えられた事案で実例を積み重ねてゆくしかないのであろうが、その場合、医師や臨床心理士の診断内容・診断書もやはり求められるのであろう。しかし、モラハラ被害を散々受け、自己評価がすっかり痛めつけられた方でも、そのような医療的支援につながっていない例は少なくなく、なかなかそのあたりの立証の補充は大変なのが実情である。そりゃそうだ、日々証拠を集めることに注力して,夫婦や家族の生活を営んでゆくこと自体、極めて高ストレスなことであり、それこそ自身のその時点での生活の前提そのものを否定することにもつながることなのだから。
司法的な救済というのは、人が裁く以上、結局のところ証拠があってなんぼ、という部分があるけれども、裁判所も、出てきた証拠に対する評価の仕方を、これまでのような見方で良いのか、もっと積極的に評価してよいのではないか、なぜそのような日記の記載があるのか、そんな内容をどうして創作できるのか,等々に切り込んで頂きたいというのが、常日頃から感じるところである。
それにしても、自己評価が低いというのは本当につらいことである。
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