阿部サダヲ主役で放映されている「不適切にもほどがある」(だったか)というドラマ。
1986年と2024年の間を、主人公と吉田羊扮する「フェミニストの社会学者」及びその息子がシンクロするというユニークな内容。宮藤官九郎的な下ネタや下世話なネタも多く、ノリについては評価が分かれるかも知れないが、いやあ、1986年ってそんなに昔なのか、ついこないだのことのように思い出されるんだけど、などと思いつつ、また、ずいぶんと世の中の雰囲気も変わったのだな、などと感慨深くも思いながら視聴。
このドラマの中で、2024年の社会をまさに示す言葉として使われているのが「多様性」。
1986年から2024年に迷い込んだ阿部サダヲ(しごきもありの熱血教師)は、「多様性」の観点よりたびたび突っ込まれることについて、例えば「働き方改革」で残業はせず、またシフト制で時間になれば途中でも退社、というような会社のあり方について、仕事それ自体をしっかりやるのであれば、時間が過ぎてもそちらの方が良いのではないか、基本の習得もなしに時間どおりを遵守するなど本末転倒ではないか、「多様性」というならそのような考え方(定時退社にこだわらない)も考慮すべきじゃないか、というような論を、ミュージカル仕立て(これが何とも奇妙なのだが)で弁ずる。
このシーンを見ていて、普段頭をよぎる点に思い至った。
金曜日に浦和駅前でいつもアジっている右翼クン。
最近は、LGBTQ理解の条例制定に尽力した自民党の県議(この人がまた、子どもだけの留守番は虐待だなどという奇妙な観点より組み立てた条例(廃案)を作ろうとした張本人だったりするのがなんともはやなのだが)をしつこくけなしている。正直、この右翼クン達がアジる内容はほぼ95%同意できないのであるが、もしかして、多様性をいうのであれば、こういった立場も尊重すべき、ということになるのか?などと思い至る点である。
他方で、やはり関連して思い至るのが、「価値相対主義」。
それこそ1986年頃(の少し前から)だったか、ポストモダンとかポスト構造主義の流れで、いろんな文章、文献の表現(「テクスト」とかいっていたな)を読み替え、既存の解釈を解体する(「デコンストラクション」か?よくわからんが。)といった論が大流行していたことがあった。これに対し、西部邁のような論客(この人は保守派ゴリゴリだったが元は全学連・新左翼系である。)が、そのような風潮を「相対主義地獄」と呼び、核となるもののないような論を批判していた(なお浅田彰は、この解体派の急先鋒だったような気がしていたが、その後の論では近代啓蒙主義的なところに立ち戻っていた?感じであった。このあたりきちんと議論を抑えていないので、印象論に止まる。)。私も、この「相対主義地獄」という批判にシンパシーを感じ、やはり何かを中核においた議論でなければ最終的な存在価値はないのではないか、ポストモダン・脱構築的な考え方は、思考の手がかりとして機能するに過ぎないのではないか、などと思っていた。
「多様性」についても、この話に繋がるのであろう。
例えば、多様な生き方を尊重しようという中で、LGBTQをフォローしようという動きが多くあるわけだが、これに対し、金曜右翼のようなアンチ(積極的に支援の動きをつぶそうとするもの)もいるわけで、「多様性」をいうのであれば、こういう発想・活動についても尊重すべきなのか、ということである。
少なくとも、思想信条の自由というレベルでは、こうしたアンチの立場も尊重されるのであろう。しかし、「多様性」という話になると、これとは違うように思う。
「多様性」の尊重というのは、ある既存の価値観に基づいた既存の社会構造、社会関係、あるいは既存の習慣等に規定された社会の中で、そこから「はみ出たような」人々、あるいはそこを「超えてゆくような」人々の生き方、あり方を尊重する、ということなのではないかと思う。つまり、「多様性」の尊重、と言うこと自体に、一定の価値観の裏付けはあるわけであり、決して価値相対主義ではないということ。
また、「多様性」を尊重するのであれば、その「超えてゆくような」人々(多くは相対的に少数であろう)の立場を尊重する、という形であるべきであり、これを大きな声や実力で排除しようとするような人々の発想・活動(それが少数であれ)を尊重する、ということにはならないように思われる。
すなわち、上記した金曜右翼の言説というのは、「多様性」の尊重という枠組みにはそぐわないものなのではないかと思う。また、「昭和的」と今や揶揄されるような、それこそ往年の体育会的なノリ(しごき、スパルタ、水飲むな、ウサギ跳び等々)というのも、「多様性」の一環として尊重されるべき、ということにはならないように思う。「セクハラ的な言動」について、「多様性」の観点よりそのような言動も正当化されるのか、といえば、当然それもやはり違うであろう(麻生の上川外相に対する発言なども、「多様性」などといって許容されるはずもないわけで。この人物早くいなくなって欲しいが、こういうのこそ長生きするのだな。フォロワーもいそうだし。)。
他方、上記した、阿部サダヲ主人公の言い分というのが、どのように取り扱われるかというのは、実は難しい問題なのかも知れない。さらに、米国の与太者、もといトランプのような言説、及びこれを支持するような言説についても、(多数いるということはおくとして)やはりどのように扱われるべきなのか、難しい部分があるのかも知れない。
さらに考えるべき点、議論すべき点はなお残るのであろう。
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