またあさってより裁判員裁判担当です。
今回は責任能力が問題となっています。
さいたま地裁の刑事裁判の部署は、5つあるのですが、裁判員裁判1つ取ってもそれぞれ対応が違います。前の時は、事件数が多かったこともありますが、公判での時間時間をきっちりと決められた感じで、窮屈感があった反面、ある意味安心感もありました。これに対し、今回は結構アバウトで、それはそれで良いと思う反面、ちゃんと休憩取るのかな、などと余計なことも考えてしまいます。
運用がまちまちというのは、慣れてない手続では不安が残りますね。
ちなみに、私は今回で裁判員裁判は5件目です。
ところで、最近私のところに、最高裁判所より手紙が来ました。「裁判員候補者の名簿に載りました」ということだそうです。回りに見せたら、ちょっとした話題になりました。
私は弁護士なので、裁判員になることはできません。ただ、だまってればそのうち、何かの事件の関係で連絡が来ると思います。ずっと黙ってれば裁判所へ出向くことになるのでしょう(もっとも、身分を明かせばその時点でアウトですから、いまからきちんと話しておいたほうがいいんでしょうが。)。
この制度については、いろいろな意見があり、中には裁判員裁判への参加要請を、「赤紙」と称して反発される方もおられるようです。国でかってに決めた制度だし、そんなものにはしばられないよ、、というところでしょうね。自由人の方なのだと思いますが、「国」というのが「個人」と対峙するものである、という発想が背景にあるのでしょう。
裁判員制度自体、特に国民世論の盛り上がりを背景にできたわけではない,「上から与えられた制度」の面が強いことは事実なのでしょうから、その感覚自体は必ずしも否定しないのですが、そういうことを言う人が、他方で北欧の制度などをもてはやしたりなんかしていたりすると、何か違和感を覚えたりもします(そういう人がいると確認はしてませんが。)。
北欧などの諸国においては、国民の代表者が「政府=国」を構成しているという感覚が、日本などとは比較にならないほど強いような印象を持っています。つまり、「国」と「個人」が必ずしも対峙しない、ということです。民意の果てに、国が成り立っているということです。政権交代はありますが、政府というものに対し、一定の信頼があるということ、また選んだ責任も感じているのだろうということ、だから税金が高くても成り立っている、ということでしょうか。
日本の「政府」がとても信頼を置ける存在ではないというのは、そのとおりなのかもしれませんが、そういうのを選んでいるのも日本国民であること、疑いないでしょう。第3極だかなんだか知りませんが、おそらく10年後には存在しないであろう「結集(野合?)」がされ(民主党も今考えれば同じようなことだったように思うが)、次回総選挙では一定数取るのでしょう。そして皆で持ち上げ、マスコミを中心にまた落とすと、そんなのが見えてしまう。
日本がどうにもならないような状況にあること、その根本問題がどこにあるのか、上記したような観点から少し考えてみることも大切なように思っております。
今回は責任能力が問題となっています。
さいたま地裁の刑事裁判の部署は、5つあるのですが、裁判員裁判1つ取ってもそれぞれ対応が違います。前の時は、事件数が多かったこともありますが、公判での時間時間をきっちりと決められた感じで、窮屈感があった反面、ある意味安心感もありました。これに対し、今回は結構アバウトで、それはそれで良いと思う反面、ちゃんと休憩取るのかな、などと余計なことも考えてしまいます。
運用がまちまちというのは、慣れてない手続では不安が残りますね。
ちなみに、私は今回で裁判員裁判は5件目です。
ところで、最近私のところに、最高裁判所より手紙が来ました。「裁判員候補者の名簿に載りました」ということだそうです。回りに見せたら、ちょっとした話題になりました。
私は弁護士なので、裁判員になることはできません。ただ、だまってればそのうち、何かの事件の関係で連絡が来ると思います。ずっと黙ってれば裁判所へ出向くことになるのでしょう(もっとも、身分を明かせばその時点でアウトですから、いまからきちんと話しておいたほうがいいんでしょうが。)。
この制度については、いろいろな意見があり、中には裁判員裁判への参加要請を、「赤紙」と称して反発される方もおられるようです。国でかってに決めた制度だし、そんなものにはしばられないよ、、というところでしょうね。自由人の方なのだと思いますが、「国」というのが「個人」と対峙するものである、という発想が背景にあるのでしょう。
裁判員制度自体、特に国民世論の盛り上がりを背景にできたわけではない,「上から与えられた制度」の面が強いことは事実なのでしょうから、その感覚自体は必ずしも否定しないのですが、そういうことを言う人が、他方で北欧の制度などをもてはやしたりなんかしていたりすると、何か違和感を覚えたりもします(そういう人がいると確認はしてませんが。)。
北欧などの諸国においては、国民の代表者が「政府=国」を構成しているという感覚が、日本などとは比較にならないほど強いような印象を持っています。つまり、「国」と「個人」が必ずしも対峙しない、ということです。民意の果てに、国が成り立っているということです。政権交代はありますが、政府というものに対し、一定の信頼があるということ、また選んだ責任も感じているのだろうということ、だから税金が高くても成り立っている、ということでしょうか。
日本の「政府」がとても信頼を置ける存在ではないというのは、そのとおりなのかもしれませんが、そういうのを選んでいるのも日本国民であること、疑いないでしょう。第3極だかなんだか知りませんが、おそらく10年後には存在しないであろう「結集(野合?)」がされ(民主党も今考えれば同じようなことだったように思うが)、次回総選挙では一定数取るのでしょう。そして皆で持ち上げ、マスコミを中心にまた落とすと、そんなのが見えてしまう。
日本がどうにもならないような状況にあること、その根本問題がどこにあるのか、上記したような観点から少し考えてみることも大切なように思っております。
0コメント