代理人弁護士の「矜持」

弁護士が、訴訟や調停などの代理人として活動する場合、かつては暗黙の了解の中で、「ここまではしない」「これはやっちゃあいけない」という一線があったように思う。

いわば弁護士の「矜持」である。

訴訟にしろ調停にしろ、対立する当事者の件を、一方について対応するわけだから、その先鋭化された対立の矢面に立ち、時にはある程度攻撃的な活動をせざるを得ないことも否定はできない。
ただ、その場合であっても、闇雲にことを大きくして主張をしたり、事実に基づく主張ではない、単なる「人格攻撃」をしたり、双方当事者立会の下で行われた手続や段取りについて、事実に反する、ないし事実をねじ曲げたような主張をしたりすることは、代理人弁護士としては決してしない、という了解があったように思われる(それは、特に誰から学んだというわけではなく、まさに我々が共有する「常識」に基づいて、言わば共通言語の中から醸し出されたものであったように思う。)。

しかしながら、最近そうでもなくなってきているような気がする。

訴訟の内容に直接関係がなかったり、訴訟の内容を知らないような人にアクセスして、一方的な事情を伝え、そのひとから「陳述書」等を取りつけ、裁判所に提出する。
双方代理人が立ち会った中でなされた段取りについて、事実を歪曲し、あるいは闇雲に大げさに取り上げて、当事者を、あるいは代理人を攻撃する。

それが、当事者自身の名で行われるのであれば、やむを得ない面もある。しかし、代理人名で行われるとすれば、やはり疑問を呈さざるを得ない。

ただでさえ激しい紛争を、代理人があたかも当事者のようにたきつけて(そのような結果をもたらすような活動をして)、なおいっそう解決から遠ざけるなどということがあるとすれば、それは弁護士の活動とは言えない。
そんな活動を,認めるわけには行かない。

今、ある不当な家裁判決を覆そうと、控訴審で何名かの弁護士が関わり始めている事件がある。
家裁判決の内容は、それまでの実務の流れとは大きく外れた、およそ受け入れがたい内容のものである。とてもこの内容を高裁で維持させるわけには行かない。
その件の家裁での証拠等に若干あたったのだが、当事者のエキセントリックさもさることながら、代理人弁護士が異常ともいうべき内容の証拠を作成し、提出している。
そして、ここで得られた異様な家裁判決は、すでにある傾向の団体によって「画期的」と取り上げられ、具体的な訴訟において盲目的な他の代理人より提出されるなどしているようである。
その団体は、自分たちの考え方と食い違う人々を集団的に攻撃したり、法廷に多数で現れて圧力をかけたりする(いわゆる政治問題、社会問題に関する市民団体とは違う。)。
さらに、何も知らない表面的な現象面のみとらえたマスコミは、その情報を垂れ流す。

その団体自体は、一応「市民」により構成されているが、
これをバックアップする、あるいは協力関係にある弁護士が存在し、その一部は前記のような活動をしたりする。
こんなことがまかり通っては、弁護士の信頼など地に落ちる。
早晩、アメリカ的な「訴訟弁護士」がはびこってしまい、弁護士の紛争解決能力など全く骨抜きになってしまうだろう。

弁護士増員の影響とは思いたくないが、そういうことより、人としての、「ここまではやらないだろう」というまさに「矜持」が、社会全体から失われつつあるのかも知れない。

これからの若い人や子供たちは、ほんとうにしんどい世の中に生きて行かなければならないのかも知れない。
「日本はすばらしい」「日本は美しい」なんて呆けたことを言ってる場合じゃない。お仕着せの道徳教育でどうなるわけでもない。
どうしたら歯止めをかけられるのか?
自分に何ができるのか?

ろっくおじさんの戯言

ビートルズが全米制覇をした年に生まれた男(いちおうべんごし)が、音楽ネタや日々の雑感を綴る。仕事には役に立たないブログ。

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