一般論と個別事件

最近、個別事件に関し、一般論を大々的に展開し、その関係の文献とか新聞記事などを闇雲に出してくるようなケースが散見される。

純粋な私人間の紛争において、そのような動きが見られる。

どのような案件とは敢えて言わない。
自身の問題性には目をつぶり、あるいはこれに直面しようとせず、問題をそういった一般論にすり替えて、時に自分が被害者であるかのような風情で訴える。

世の社会問題に関し、そういった対応がうなずける事案があることは否定しないし、まさに社会問題として裁判所を巻き込んで行こうとするような動きについては、理解できる部分がある。個々の弱者が、まとまって闘う必要がある場合は当然ある。

しかし、個人間の紛争で、しかも自分自身にも問題が相当程度あったのではないか、と思われるような事案で(相手に問題が全くないとは敢えて言わないとしても)、
自身の問題性には目をつぶり、問題をすり替えて一般論に落とし込む。
それに弁護士が加担する。

とても見にくい。

しかも、個人とは言え、強い力、大きな力を自身が持ち、あるいはそのようなものを背景にしつつ(あるいは、背景にしていると思い込みつつ)、ないしは人脈を利用し、あるいはその人脈を誇示しつつ、そういった一般論へのすり替えをして、純粋な個人間の紛争を社会問題的に取り扱うよう迫る。

そういったものの深層には、あのヘイトスピーチにも通底する構造があるように思う。
「トランプ的」な構図かも知れない。

それに弁護士が加担する。

本当に見にくい。

そんな仕事は決してしたくない。

いつでも、問題については、一歩引いた、冷静な観点で見つめる姿勢を持ちたいものである。



今後、おそらくこのような動きはさらに強まるだろう。

なぜか。

それは、そのような動きをするものが、たいていは金を持っているからである。
金がある者のために、加担する弁護士が残念ながら相当程度存在する。
企業ではなく、個人について。

ますます、腰を据えて仕事をして行かねばならない時代がやってきそうである。

ろっくおじさんの戯言

ビートルズが全米制覇をした年に生まれた男(いちおうべんごし)が、音楽ネタや日々の雑感を綴る。仕事には役に立たないブログ。

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