昨今、訴訟事件等、裁判所に係属する事件が少なくなっていると言われる中で、家庭裁判所は係属事件数が増加している。
離婚調停事件は、現在も若干右上がりの状況のようで、家庭裁判所はいつも混雑している。限られた庁舎のスペースの中で、調停室の確保にいろいろ大変なようである。
その中でもとりわけ、昨今面会交流に絡む事件が増加している。
少子化や、俗に言う「イクメン」(嫌いな言葉だが)の浸透等を背景に、離婚した場合の子の取り合い(親権ないし監護権の争い)や面会交流に関する紛争が増加するというのは、ある意味必然のことであろう。
この絡みで、現在離婚後の親権を、離婚父母の一方にのみ帰属させるとしている法制度に対し、離婚後も父母の共同親権を原則とすべきとする意見が有力となっており、このことについての研究論文が出されたり、また政治家へのロビー活動等もなされているようである。
このような考え方が存在すること自体を、私は必ずしも否定はしない(もちろんのことである)。しかし、最近、かかる運動に絡んで、それを前面に持ち出し、私人間の紛争である離婚問題に対応しようという一部の弁護士(以下、「運動家」という。)の存在が目につくように思う。
活動内容・スタイルは、概して攻撃的であり(相手方当事者のみならず、その代理人まで攻撃する)、定型的であり(長く親子での接点がなかったようなケースでも、判で押したように宿泊付き面会を初回から申し入れてきて、これを頑強に言い張り続ける。)、新聞・雑誌の記事や論文のコピー等を大量に提出する(ウェッブサイトでセットで販売されているのか?)、等々、おんなじである。事案の内容や主張の状況にかかわらず、おんなじである。また、当事者をろくに説得できないことも、おんなじである。当事者そのもののような主張を垂れ流す。相手方弁護士に対する誹謗中傷など、お手の物といった感じである(本人が書いたとしか思えないような文書を、なんのてらいもなく弁護士名(代理人名)で提出する。そして、それが弁護士としてあるべき活動だと思っている(のだろう)。でも、懲戒は意識しているようで、そこに絡まない程度で止めていたりする。)。
もしかすると、アメリカではこのような弁護士の活動が、あるべきものとしてもてはやされているのかもしれない。有能な弁護士の活動として、評価されているのかもしれない・・・?ほんとにそうか?
私は、このような運動家の活動を見ると、なぜかヘイトスピーチ運動とダブって見えて仕方がない。なぜって?感覚的にそう思えてしまうのだから仕方がない。ちょうど、うちの事務所の武笠弁護士のことを、「職人・・ジェフベック!」と思えてしまうことと同じ、その程度のレベルである。高野隆弁護士のことを、「ジミヘン!」と思えてしまうことと同じである。もちろん、別にかかる運動家=ヘイトスピーカーだと言っているわけではないから、念のため。
しかし、私は、こんな弁護活動・代理人活動が、もし今後広くまかり通るようになるのであれば、弁護士業務など早かれ遅かれ地に落ちると思う。相手が強大な国家権力であったり、大企業であったりするのであれば、時に激しい活動や言論も必要かもしれない。あるいは刑事事件であれば、弁護人としての活動が一定程度攻撃的になることもやむを得ないと思う。しかし、ことは私人間のことである(もっとも、運動家たちは、かかる私人間紛争への対応を通して、自分たちの主張に反する裁判所の実務や判断状況(これも彼らにとれば一つの権力構造?)と戦っているとでも思っているのかもしれないが。)。
また、離婚事件に関し、このような動きがあまりにも広がることは、非常に危険である。この運動家たちは、「客観的な証拠がないDV事件はでっちあげDV」であるかのような論陣を張っているのである。家庭内という密室でなされるDV事件は、往々にして客観的証拠に乏しい。しかし、対応する弁護士は皆、被害者本人の生々しい話を聞き、そこに、実際に経験したものでなければ話せないような内容を把握し、仮に客観的な証拠に乏しくとも、これは(内容は様々であれ)DV事件であると確信を持って対応しているのである。もちろん、訴訟になれば主張は対立する。対立すれば、相手に対し、一定の攻撃(反撃)はやむなしであろう。しかしながら、当事者本人でない我々弁護士の活動には、そういったものも一定の限度にとどめておこうという、「矜持」というものがあるはずではないか。
かかる運動家の論調がまかり通れば、およそDVから逃れることは困難となろう。その場合、被害者の大半を占めるであろう女性は、家庭の中でひたすら我慢を強いられながら生活するしかなくなる。2001年にDV防止法が制定され、その後DV被害への対応手段が広く整備されてきたが、前記の運動家の活動は、かかるDV被害者保護への取り組みの揺り戻しにとどまらず、「女は一歩下がって夫に従え」という昭和の家庭観の再構成(再強制)にまでつながってゆくのであろう。
かかる動きの先には、自民党憲法草案にある、憲法24条改正案のような発想がつながってくると思われる。もしかすると、運動家の目的は、実はそのあたりにあるのかもしれない。「古い家制度的な発想の復活」。運動家の顔を思い浮かべながら、そんなことを最近感じている。
離婚調停事件は、現在も若干右上がりの状況のようで、家庭裁判所はいつも混雑している。限られた庁舎のスペースの中で、調停室の確保にいろいろ大変なようである。
その中でもとりわけ、昨今面会交流に絡む事件が増加している。
少子化や、俗に言う「イクメン」(嫌いな言葉だが)の浸透等を背景に、離婚した場合の子の取り合い(親権ないし監護権の争い)や面会交流に関する紛争が増加するというのは、ある意味必然のことであろう。
この絡みで、現在離婚後の親権を、離婚父母の一方にのみ帰属させるとしている法制度に対し、離婚後も父母の共同親権を原則とすべきとする意見が有力となっており、このことについての研究論文が出されたり、また政治家へのロビー活動等もなされているようである。
このような考え方が存在すること自体を、私は必ずしも否定はしない(もちろんのことである)。しかし、最近、かかる運動に絡んで、それを前面に持ち出し、私人間の紛争である離婚問題に対応しようという一部の弁護士(以下、「運動家」という。)の存在が目につくように思う。
活動内容・スタイルは、概して攻撃的であり(相手方当事者のみならず、その代理人まで攻撃する)、定型的であり(長く親子での接点がなかったようなケースでも、判で押したように宿泊付き面会を初回から申し入れてきて、これを頑強に言い張り続ける。)、新聞・雑誌の記事や論文のコピー等を大量に提出する(ウェッブサイトでセットで販売されているのか?)、等々、おんなじである。事案の内容や主張の状況にかかわらず、おんなじである。また、当事者をろくに説得できないことも、おんなじである。当事者そのもののような主張を垂れ流す。相手方弁護士に対する誹謗中傷など、お手の物といった感じである(本人が書いたとしか思えないような文書を、なんのてらいもなく弁護士名(代理人名)で提出する。そして、それが弁護士としてあるべき活動だと思っている(のだろう)。でも、懲戒は意識しているようで、そこに絡まない程度で止めていたりする。)。
もしかすると、アメリカではこのような弁護士の活動が、あるべきものとしてもてはやされているのかもしれない。有能な弁護士の活動として、評価されているのかもしれない・・・?ほんとにそうか?
私は、このような運動家の活動を見ると、なぜかヘイトスピーチ運動とダブって見えて仕方がない。なぜって?感覚的にそう思えてしまうのだから仕方がない。ちょうど、うちの事務所の武笠弁護士のことを、「職人・・ジェフベック!」と思えてしまうことと同じ、その程度のレベルである。高野隆弁護士のことを、「ジミヘン!」と思えてしまうことと同じである。もちろん、別にかかる運動家=ヘイトスピーカーだと言っているわけではないから、念のため。
しかし、私は、こんな弁護活動・代理人活動が、もし今後広くまかり通るようになるのであれば、弁護士業務など早かれ遅かれ地に落ちると思う。相手が強大な国家権力であったり、大企業であったりするのであれば、時に激しい活動や言論も必要かもしれない。あるいは刑事事件であれば、弁護人としての活動が一定程度攻撃的になることもやむを得ないと思う。しかし、ことは私人間のことである(もっとも、運動家たちは、かかる私人間紛争への対応を通して、自分たちの主張に反する裁判所の実務や判断状況(これも彼らにとれば一つの権力構造?)と戦っているとでも思っているのかもしれないが。)。
また、離婚事件に関し、このような動きがあまりにも広がることは、非常に危険である。この運動家たちは、「客観的な証拠がないDV事件はでっちあげDV」であるかのような論陣を張っているのである。家庭内という密室でなされるDV事件は、往々にして客観的証拠に乏しい。しかし、対応する弁護士は皆、被害者本人の生々しい話を聞き、そこに、実際に経験したものでなければ話せないような内容を把握し、仮に客観的な証拠に乏しくとも、これは(内容は様々であれ)DV事件であると確信を持って対応しているのである。もちろん、訴訟になれば主張は対立する。対立すれば、相手に対し、一定の攻撃(反撃)はやむなしであろう。しかしながら、当事者本人でない我々弁護士の活動には、そういったものも一定の限度にとどめておこうという、「矜持」というものがあるはずではないか。
かかる運動家の論調がまかり通れば、およそDVから逃れることは困難となろう。その場合、被害者の大半を占めるであろう女性は、家庭の中でひたすら我慢を強いられながら生活するしかなくなる。2001年にDV防止法が制定され、その後DV被害への対応手段が広く整備されてきたが、前記の運動家の活動は、かかるDV被害者保護への取り組みの揺り戻しにとどまらず、「女は一歩下がって夫に従え」という昭和の家庭観の再構成(再強制)にまでつながってゆくのであろう。
かかる動きの先には、自民党憲法草案にある、憲法24条改正案のような発想がつながってくると思われる。もしかすると、運動家の目的は、実はそのあたりにあるのかもしれない。「古い家制度的な発想の復活」。運動家の顔を思い浮かべながら、そんなことを最近感じている。
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