今年は、洋楽関係ではほんとうに大物がたくさん亡くなった。
最近でも、レナード・コーエンとか、レオン・ラッセルとか(どちらも、あまり聞き込んでない。特にレオン・ラッセルというかスワンプ・ロック系はあまり得意ではない。いい曲もあるけどね。)。
それにしても、
キース・エマーソンが自死したその年に、レイクまでも亡くなってしまったとは。
ガンだとのこと。
グレッグ・レイクが一般的に有名になったのは、
なんといってもキングクリムゾンの「the court of the crimson king」。
ビートルズのアビーロードをチャートで抜いて1位になったという「都市伝説」も含め、当時の衝撃はすさまじいものだったと思う。
私も、中2(東村山2中)の頃、クラスの何人かがこのアルバムにはまり、前に書いた「うえちゃん」の家で「鑑賞会」(笑)をしたりした。音楽の授業で、好きなレコードをかけていいということになって、このアルバムに入っている「21世紀の精神異常者」や「エピタフ」をかけてもらったが、クラスの他の連中は無反応で大騒ぎで、谷ちゃんが「こんなに酷いとは思わなかった」と落胆していたこと、それから音楽の教師が「どこがいいのこんなの。」と素っ気なく言っていたことが思い出される。
まあ、わからない古典音楽至上主義者には、わかってもらわなくていいし、そのまま人生から退場してもらっていい、という感覚だった(でも、クラシックファンにプログレッシブロックとの親和性があるのは明らかで、クラシックのミュージシャンがプログレのカバー集を出したり、吉松隆が大河ドラマ「平清盛」でELPのタルカスを使っていたことも記憶に新しい。)。
キング・クリムゾンは、ロバート・フリップのワンマンバンド的なところもあるが、でも初期メンバーは、ロバフリ、グレッグのほか、マルチミュージシャンでのちにフォリナーを結成し、さらにのちにそこからクビになったイアン・マクドナルド、ジャズ的なこまかな印象的なドラミング(個人的には、初期クリムゾンのイメージづくりにこのドラミングが相当貢献していると思っている。)のマイケル・ジャイルズ(この2人は一時期マクドナルド&ジャイルズというグループを作り、名作を残している。)、さらに作詞専門のメンバーで、こちらもクリムゾンのイメージづくり(というか、プログレのイメージづくりかも)に多大な貢献をしていたピート・シンフィールドがいた。このファーストアルバムは、何度も聞いた今となっては、ちょっとおおげさな印象(それこそがプログレという説もあるが)、またちょっと古くなったかな、という印象もないではないが、その衝撃性は今でも伝わってくるし、またこんなのがよく大ヒットしたなと思ったりもする。ロック史上不朽の名作であることは確立した評価であろう。
グレッグは、次の「ポセイドンの目覚め」にも参加した上で、キースやカール・パーマーとELPを結成。このバンドの実質的なお披露目は、1970年のワイト島ロックフェスティバル(ジミヘンが最後に出演したビッグイベント)だったと思うが、その時のフィルムで見る観客の熱狂ぶりは、まさに新しい時代の到来を感じさせるものであったと共に、モンタレーとかウッドストックと言った一定の精神性をはらんでいたロックフェスが、ちょっと異質なものに変わってきたのかなこのころから、という印象も正直与えるものであった(ワイト島フェスのフィルムは、ストーンズの「オルタモントの悲劇」以降、こういったフェスの変貌の過程を記録したものともいえ、ある意味興味深い。)。
ELPは、谷ちゃんにいろいろ勧められたにもかかわらず、他のプログレバンドほどは熱心に聞いてなかった(曲が長く、またちょっと大げさな感じが強かったので。)のだが、「ビートクラブ」のビデオが発売されて、そこで「ナイフ・エッジ」の演奏を見てから、やっぱかっこいい、などと思うようになり、何枚も購入した。ファーストや「恐怖の頭脳改革」等いいアルバムがあるが、個人的には、わりと小品集の様相の「トリロジー」が好みである。74年から3年おいて77年に「4部作」を出したが、このころから若干失速気味となり、折からのパンク・ムーブメントの中では、パンクスのプロテストの対象であった旧来型の巨大なロック・ビジネスの象徴であるかの位置づけとなってしまい、気の毒なところもあった(もっとも、考えてみれば、こんな音楽が全英のみならず、全米ほか世界のチャートを賑わしていたこと自体、なんかすごい時代だったと思うが。)。
79年には、バハマ録音の、「ビーチで愛し合おうぜ」なんていうアルバムを出しやがり、その評価は地に落ちてしまったが(笑)、グレッグは落ち目のELPが解散後も、これこそ大仰プログレのなれの果て、といった感じの「エイジア」に、ジョン・ウェットンの代わりに一次的に参加したり等して、なお活動を続けていた(エイジアは、ほんとうに大げさで好きではなかったのだが、メンバーはもとイエス、ELP、クリムゾンといった感じで、よく聞くとスティーブ・ハウのギターがうなり、カール・パーマーのドラムがもたり、そしてボーカルはウェットン、またはグレッグというわけで、聴き方によってはある種のプログレファンにはこたえられないものだったと思う。)。忘れていたけど、リンゴのオールスターバンドでいっしょに来たこともあったらしい(このバンド、ホント取り合わせが不思議なバンドだ。リンゴの人間性が人々をつなげていたということなのだろうけど。)。ELPはその後再結成もあったが、当たり前だけれども当初のような衝撃を取り戻すことはなかった。
ずいぶん書いてしまった。
それにしても、本当に今年は訃報が多かったな。
でも、来年以降もますますこの傾向は続くんだろうな。
最近でも、レナード・コーエンとか、レオン・ラッセルとか(どちらも、あまり聞き込んでない。特にレオン・ラッセルというかスワンプ・ロック系はあまり得意ではない。いい曲もあるけどね。)。
それにしても、
キース・エマーソンが自死したその年に、レイクまでも亡くなってしまったとは。
ガンだとのこと。
グレッグ・レイクが一般的に有名になったのは、
なんといってもキングクリムゾンの「the court of the crimson king」。
ビートルズのアビーロードをチャートで抜いて1位になったという「都市伝説」も含め、当時の衝撃はすさまじいものだったと思う。
私も、中2(東村山2中)の頃、クラスの何人かがこのアルバムにはまり、前に書いた「うえちゃん」の家で「鑑賞会」(笑)をしたりした。音楽の授業で、好きなレコードをかけていいということになって、このアルバムに入っている「21世紀の精神異常者」や「エピタフ」をかけてもらったが、クラスの他の連中は無反応で大騒ぎで、谷ちゃんが「こんなに酷いとは思わなかった」と落胆していたこと、それから音楽の教師が「どこがいいのこんなの。」と素っ気なく言っていたことが思い出される。
まあ、わからない古典音楽至上主義者には、わかってもらわなくていいし、そのまま人生から退場してもらっていい、という感覚だった(でも、クラシックファンにプログレッシブロックとの親和性があるのは明らかで、クラシックのミュージシャンがプログレのカバー集を出したり、吉松隆が大河ドラマ「平清盛」でELPのタルカスを使っていたことも記憶に新しい。)。
キング・クリムゾンは、ロバート・フリップのワンマンバンド的なところもあるが、でも初期メンバーは、ロバフリ、グレッグのほか、マルチミュージシャンでのちにフォリナーを結成し、さらにのちにそこからクビになったイアン・マクドナルド、ジャズ的なこまかな印象的なドラミング(個人的には、初期クリムゾンのイメージづくりにこのドラミングが相当貢献していると思っている。)のマイケル・ジャイルズ(この2人は一時期マクドナルド&ジャイルズというグループを作り、名作を残している。)、さらに作詞専門のメンバーで、こちらもクリムゾンのイメージづくり(というか、プログレのイメージづくりかも)に多大な貢献をしていたピート・シンフィールドがいた。このファーストアルバムは、何度も聞いた今となっては、ちょっとおおげさな印象(それこそがプログレという説もあるが)、またちょっと古くなったかな、という印象もないではないが、その衝撃性は今でも伝わってくるし、またこんなのがよく大ヒットしたなと思ったりもする。ロック史上不朽の名作であることは確立した評価であろう。
グレッグは、次の「ポセイドンの目覚め」にも参加した上で、キースやカール・パーマーとELPを結成。このバンドの実質的なお披露目は、1970年のワイト島ロックフェスティバル(ジミヘンが最後に出演したビッグイベント)だったと思うが、その時のフィルムで見る観客の熱狂ぶりは、まさに新しい時代の到来を感じさせるものであったと共に、モンタレーとかウッドストックと言った一定の精神性をはらんでいたロックフェスが、ちょっと異質なものに変わってきたのかなこのころから、という印象も正直与えるものであった(ワイト島フェスのフィルムは、ストーンズの「オルタモントの悲劇」以降、こういったフェスの変貌の過程を記録したものともいえ、ある意味興味深い。)。
ELPは、谷ちゃんにいろいろ勧められたにもかかわらず、他のプログレバンドほどは熱心に聞いてなかった(曲が長く、またちょっと大げさな感じが強かったので。)のだが、「ビートクラブ」のビデオが発売されて、そこで「ナイフ・エッジ」の演奏を見てから、やっぱかっこいい、などと思うようになり、何枚も購入した。ファーストや「恐怖の頭脳改革」等いいアルバムがあるが、個人的には、わりと小品集の様相の「トリロジー」が好みである。74年から3年おいて77年に「4部作」を出したが、このころから若干失速気味となり、折からのパンク・ムーブメントの中では、パンクスのプロテストの対象であった旧来型の巨大なロック・ビジネスの象徴であるかの位置づけとなってしまい、気の毒なところもあった(もっとも、考えてみれば、こんな音楽が全英のみならず、全米ほか世界のチャートを賑わしていたこと自体、なんかすごい時代だったと思うが。)。
79年には、バハマ録音の、「ビーチで愛し合おうぜ」なんていうアルバムを出しやがり、その評価は地に落ちてしまったが(笑)、グレッグは落ち目のELPが解散後も、これこそ大仰プログレのなれの果て、といった感じの「エイジア」に、ジョン・ウェットンの代わりに一次的に参加したり等して、なお活動を続けていた(エイジアは、ほんとうに大げさで好きではなかったのだが、メンバーはもとイエス、ELP、クリムゾンといった感じで、よく聞くとスティーブ・ハウのギターがうなり、カール・パーマーのドラムがもたり、そしてボーカルはウェットン、またはグレッグというわけで、聴き方によってはある種のプログレファンにはこたえられないものだったと思う。)。忘れていたけど、リンゴのオールスターバンドでいっしょに来たこともあったらしい(このバンド、ホント取り合わせが不思議なバンドだ。リンゴの人間性が人々をつなげていたということなのだろうけど。)。ELPはその後再結成もあったが、当たり前だけれども当初のような衝撃を取り戻すことはなかった。
ずいぶん書いてしまった。
それにしても、本当に今年は訃報が多かったな。
でも、来年以降もますますこの傾向は続くんだろうな。
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